その人の『愛』からの発信だったことは事実だ。
しかし、私の心は切なかった。
小5の私の息子を、産まれた時から見ていたその人はこう言った。
「この子は我慢が足らない。努力も足らないよね。」
私の心はざわついた。
”ああっ、この言葉、自分もよく言われたし、この言葉は周りでよく聞いたことある・・・”
私の心は、この言葉をストレートに流してはくれなかった。
なんでだろう???
なんだろう??? この気持ち。
はっきりとした場面は思い浮かばなかったが、
「ちがう!」
そう、心が叫んでいた。
”あなたは私の何を見た?何を知っている?”
私は思う。
一番近い親子ですら、私は息子が『努力しているか』、『我慢しているか』なんて”一部”しか知らない。
そして”一部”といっても、ほんの氷山の一角くらいの程度だと思う。
『克服したい事』が目に見えるものだったら分かりやすいだろう。
足が速くなりたい!
サッカーが上手になりたい!
テストでいい点を取りたい!
計算が早くできるようになりたい!
・・・
『克服したい事』が精神的な部分だったらどうだろうか?
その子が口に出して表現してくれれば、こちらも分かるだろうが、
精神的な部分は『言葉にならない思い』の方が多いのではないだろうか。
むしろ、言葉にできるならこんなモヤモヤはとっくに解決しているのではないだろうか。
言葉でどう表現していいか分からない、自分でも整理がつかず持て余す気持ちに、
人間は精神的部分で悩むのではないだろうか。
だから、目に見える物事だけで判断してほしくない。
彼は口数が少なく、のんきに暮らしているように一見は見える。
しかし、内面世界は親の私でもわからない。
ひょっとしたら、ビビりで自分でも”勇気を出さないと”と、自分で自分を励ましている事がたくさんあるかもしれない。
それって一生懸命努力しているし、頑張ってる。
でも他人には分からない。いくら近くで見ている親でさえも。
だから『私は”知っている”、”分かっている”』つもりなんてやめて欲しい。
それは勘違いだよ。早とちりだよ。所詮、”つ・も・り”なんだよ。
決めつけないで。
その人が『頑張った』、『努力した』、『我慢した』こと、量って、その人にしか分からない。
誰にも分からない。
私も他の人の”深さ”を全て感じることはできない。
言葉にしてもらった部分しか感じることはできない。
だからこそ、決めつけたくない。
だからこそ、『そうなんだね』って受け止めることしかできない。
だからこそ、相手を信頼する。
この気持ち、全部自分がずっと感じてきたことなんだなぁ~
吐き出せてよかった。
0コメント