物事が『その物事の本質』からずれていることが多々ある。
物事の本当の姿(あるべき姿)から、どうして離れていってしまうのだろうか・・・
私はよく会社でその事例を目にしてきた。
とくに『仕事』については顕著に表れる。
日常生活では”正解”という事を導き出すことはできない。
なぜなら、一人一人”正解”が違うからだ。
しかし、『仕事』については明確になるものの方が大半だろう。
ー何の目的でそれをやるのかー
ここに、全ての答えが入っている。
しかし会社というものは、どうしてこうも形を変えて複雑に物事が絡み合ってしまっているのだろうか。
最初は、スタートである『ー何の目的でそれをやるのかー』に注意を払い
物事を作ったと思う。
それが年数が経つごとに、担当者が複数人と変わっていくなかで、
”作業”のみが伝わり、『ー何の目的でそれをやるのかー』の心の部分が置き去りになってしまうのではなかろうか。
心を失った『仕事』は、”ある刺激”によって、どんどん形を変え、物事を更に複雑にさせてしまう可能性を秘めてしまう。
そしてその”ある刺激”というのは、『人の感情』である。
私が良く耳にしてきた言葉、
『周りから(上から)こういわれると困る(嫌だ)から・・・』
そうなのだ。
物事が本質から離れていってしまう原因の多くには、この
『周りからどう思われるか』
の感情に振り回されて起こる事が多いのではないか。
『何の目的でこれをやり、目的の為に何をしなければいけないのか、どうあるべきがいいのか』
に注目するのではなく、自分の感情の
『これをしたら(言ったら)、周りからどう言われるだろうか』
に注目をしてしまう。
これでは物事の本質にはたどり着けないであろう。
注目すべき点が全然違うからだ。
上記の感情以外にも、実に様々な『個人の感情』に注目して歪んでしまっていることも目にしてきた。
では、どうすれば物事を感情抜きでシンプルに考えられるのだろうか。
人間である以上、ここの部分を避けることはできない。
なぜなら、その部分と折り合いをつけていく事こそが、「生きる」という事なのだと、
私は思う。
上記のように物事が本質から離れていってしまう瞬間の刺激とは、
当人の『痛い場所』を突かれた時なのではないだろうか。
痛くも痒くもない場所であれば、そのままスルーして物事は曲がらずに進んでいたと思う。
誰にも『痛い場所』は持っている。
その『痛い場所』を守るため、一生懸命鎧を着て武装して、物事を変な角度へ弾き飛ばそうとすると、おかしなことになる。
『痛い場所』を突かれても、そのまま受け止め、そのままの角度で通過させれば、良いのではないだろうか。
それをする為には、『己の弱さを認める事』そして『許す事』。
それが出来た時、今まで一生懸命武装していた鎧を手放すことができるだろう。
”私はその部分は苦手だから、きみの力を貸してくれないか?”
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