「違い」は楽しい

本当は、すぐにでも寝る準備をしないといけない。

昨日は寝るのが遅くなり、明日も仕事。

なので、今日は体を整えるのに早く寝た方がいい。

でも、『今』じゃないといけないのだ。



今日感じたこと。

そして、この頭が少しボヤっとして、けだるい感じ。



この感じの時に、一番、私が表現したい世界観を言葉にして出せる時。

いつもそう。

絶好調の時ではなく、ちょっと疲れていて、

”調整しないとなぁ~”

と思うくらいの感じの時。

私の世界観は、「陰」から「陽」を見る世界。

だから、「陰」っぽい状態の時が一番好きなものが出せる。



そして、その世界観が広がっている『今』しか、今日感じたことは出せない。

時が少しでもずれてしまえば、もうその世界観は消えてなくなり、取り戻せない。

(自分でも困ることがある。えっ⁈今⁈ みたいに(笑)。)





今日は、2016、17年辺りの、「私が一番尖っていた時期」に出逢った方とゆっくり話せた。

その頃は、「子供の私」が「大人の私」を『完全無視をする』というミッションを行っていた時だ。


「散々私を無視しやがってーーーー(怒)」

と、子供の私が怒り狂って、今度は大人の私を折に閉じ込めてた時期。


私の成長にとっても大切な時期。


その当時、私が発する言葉、態度から、その方が受けたであろう衝撃と印象は想像できた。

しかし、それをあえて無視をする、自分の中に入れないのが訓練だった。



そこからしばらく疎遠となり、話す機会もほとんどなかったが、

今回ゆっくりと過去の話をさせてもらうことができた。

当時の私の状況、そこから何を学び、なぜあの時期が必要だったのか。

そしてそこからの変化。

そして「私」という人間について。



その方の「考え」「物事の感じ方」なども教えてもらった。

”母に似てるなぁ~”と思った。

昔、母が私によく言っていた言葉をその方から聞くことができた。



容姿は「人間」だけれど、全く種類の違う生きものどうしである。

肉食動物と草食動物くらい違う。

なので、肉食動物が草食動物に、

「何で肉食べないの?こんなにおいしいのに~。信じらんない~」

と言うくらい、理解など到底できない者同士なのだ。

人間とは、そのくらい違う種類が集まっている。

こんな話の講座を、昨年、一昨年前はCoco+(ココプラス)講座で講師としてよくやっていたのを思い出した。



最近は同じ種類の仲間で意思疎通を行って物事を進めてきたので、

なんか久しぶりに違う種類の人間と出逢い、新鮮だった。

やっぱり違う。全然違う。

目の前でその感覚の違いを感じると、嬉しくなった。

昔は寂しくなってたけれど、

今日は嬉しくなった。



ここ数日で、ちゃんと自分の世界観を表現できているからだろうか。

違う感覚の人も、とても愛おしかった。

「分からなくていい。理解しなくていい。『そうなんだぁ』って受け止めれるだけで楽しい」



その方と話し終えた後、自分の中であることが浮かんできた。



それは、表現をした方がいいと思ったこと。



その方も私に対して思ったことで、

母もよく私に言っていたこと。



なんでそんなに深く考えるの?

だから苦しくなるんだよ。

もっと気楽に流せばいいんだよ。



私は今のように自分の状況が色々と分からず、

表現して伝えることも出来なかった頃、

この言葉にたくさん悩み傷ついてきた。



でも、この言葉は、その種類の人間からしたら当たり前なんだろう。

そして、私のような種類の人間が意味不明だったに違いない。



今なら、ちゃんと説明ができる。


大好きな食べ物を目の前に出された時、

一瞬で「おいしそう!」って感じるのと同じ。

考えている間もない。

そのように私は一瞬で心の奥深くまで潜りに行ってしまう。

だから、

「大好きな食べ物を見た瞬間に『おいしそう!』と思ってはダメ」

と言われているのと同じで、不可能なことなのだ。



私のような人間は、

「伝わらないなぁ」

「分かってはもらえないんだぁ」

と一瞬の空気感で判断し、

そして自分の世界観を外へ出すのをやめてしまう。

正確には、やめてしまっていた。



「私のような人間」とは、

友人に先日紹介してもらったこの本↓


『実は、内向的な人間です』

ナム・インスク (著), カン・バンファ (翻訳)


に書いてある、ような人間のこと。

この本、読んでいてクスクス笑えてくるんです。

「分かる~」「同じだ~」「そうなんよね。そうなっちゃうんだよね!」

って、同じすぎて。今の私の場合もあれば、過去の私の場合もある。

この本については、また次回書こうかな。




自分の世界観を出すのにエネルギーがいるし、

まして、種類の違う人間となると、

より分かりやすく、

より丁寧に、

適切な言葉で、

と、考えることがいっぱいで、出すのを諦める方が楽なんです。



でも、出す必要性を今日は感じました。

私が諦めたら、そこで無かった世界になる。

ちゃんと存在するなら、諦めずに、ゆっくりでもいいから出していく。

そうすれば、ゆっくりと、そんな世界もあるんだと、

その世界の存在を知ってもらえる。

理解ではなく、知ってもらうことが大切なのだと感じた。

出すだけで、すっごく疲れるんだけど、

出すとスッキリするし、他の人にも伝わるから。






物事を深く感じることは苦しいこともあるけれど、

それでも、

絶対に自分は好んでいることを、

私は、もう分かってる。




色々なことが分からなかった時代は、本当に苦しかった。

自分でも自分を褒めてあげたい。




でも今は、輝いている。

とてつもない苦しみもあるけれど、

それでも、世界が輝いているのを、

私は、知っている。

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