自分自身は、何のつまづきもなく、
大人になった。
いじめられたこともなく、
大きな痛みはあまり無かったとのこと。
そう教えてくれた人がいた。
その人が子供を産んだ。
「自分の子供がいじめられたら、どうしよう。いじめた子の親のところへ文句を言いに行くかな。」
私は親と子の魂は違うことを話した。
そして、いじめることも、いじめられることにも、意味がある。
その経験をすること自体が、その魂にとっては意味がある。
そしてその人はこう言った。
「いじめるとか、意味わかんない。なんでそんなことするの。ほんとに意味が分からない。」
自分のことを合理的主義だと言っていたその人だが、
きっと、子供通じて、人間の心は合理的にはいかないことを学んでいくのだと感じた。
自分には理解できない世界があるということを学び、どうやったらその実態が掴めない世界を自分の中に受け入れていくのか。
人の心は、時として、真逆の反応を示すことがある。
その真意を知るには、ある程度、無意識下のものを意識下に引き寄せないと繋がらないこともある。
子供がいなければ、全く違う世界を持っている人とは距離を置ける。
この距離を置くとは、
自分には理解できない世界を、一度自分の中に受け入れ、味わった結果、
「適切な距離に置いた」という意味ではない。
最初から味わいもしない、「食わず嫌い」という意味だ。
子供がいると、無理やり集められた集合体の中に放り込まれる。
まるで、小学校、中学校のように。
自分が子供だった時には対処できなかったもの、訪れなかったものを、
今度は大人になって同じシチュエーションを与えられ、学びなおすのか。
様々な価値観の人間を前にして、
傷ついたり、傷つけたり、
驚いたり、幸福を感じたり。
どんどん魂は磨かれてゆく。
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