自己肯定感と自己信頼感

私はいつも人と比べる。


比べて、「悔しさ」が胸に広がることが最近多い。

『自分だって!!!!!』


という気持ちになる。



その気持ちとの折り合いをどうつけるかが課題。

そこの感情に囚われ過ぎてしまうと、この先に行けない感じがするからだ。


それについて、先日友達から言われた言葉で鮮明となった。


「あなたはすごいよ。常に人と比べれるって勇気がないとできない。自己肯定感低くないんじゃない?」



私は34歳くらいまで自己肯定感低く生きてきたと思い込んでいた。

こんな私が生きてて申し訳ない。

こんな私と友達になってしまって、あなたに申し訳ない。

(いつでも友達やめていいから)

なんて言葉が頭の中をいつも駆け巡っていた。



だから、「あなたは自己肯定感低くないんじゃない?」と言われた時に、頭が動き出した。

まず、

人と比べることに、「勇気がある」という言葉を当てがっていいのか!という発見。

そして、

上記に述べた頭の中をめぐる言葉達の事象は、自己肯定感の低さから現れることに間違いないということ。


では一体、何が起こっているんだ?




私のパワースポット時間でもある、夜のお風呂の時間。

その時に降りてきた。


『自己信頼感だ。』




私は自己肯定感は低いが、自己信頼感がとても高い。


どう違うかというと、


【低い自己肯定感】

訓練して高めてきた「自己肯定感」だが、

今でも何かが起こると、瞬時に「私が何かしてしまったのか!?」と、

自分がダメ前提で物事を見て受け取ってしまうことがある。

そしてそこに気付き、

「あなたは何も悪くないよ」

「あなた以外の人は、絶対にあなたの存在・人格について否定することは出来ないんだよ(あなたがそれを許してしまわない限り)」

「悲劇のヒロイン劇場を始めてはダメだよ!」

と、思考の修正を何度もかける。

しかし心が弱っていると思考の修正をかける前に、心の「核」の部分にまで侵入させてしまい深手を負うことがある。



【自己信頼感】

「私は絶対、いつか花を咲かせられる!」と信じている。

どんな花を咲かせたいのか、今は花は咲いていないのか?

など細かいことは全然分からないが、

「私は今よりももっと出来るようになる!」と思ってる。

そう思い込みたいのか、「今」を否定しているのか、

色々考えたけど、よく分からない。

ただ、

『自分の心の中に広がっている世界を、まだほんの一部しか表現できていなくて、

いつか全部表現できることが分かっている』

という感覚。

「いつか」とは、今世中なのか、この魂が完成するまでに、なのか分からないが。

出来ると信じているのか、やると決めているのか、それも分からない。






書いていて思ったのが、

「決定されていること」は分かっているんだけど、

細かな部分の「何が?」「どのように?」が全く分からず、

それを追求するために突き動かされて生きているなぁ~と。


疲れるなぁ~。(笑)

もっと気楽にしたいが、心を緩めるとすぐに次への扉を開きたくなる衝動が抑えられない。

この衝動は「ワクワク」だから方向的には間違っていないと確信しているが、

やっぱり疲れる。でも、絶対に気楽に生きていくのも疲れると分かってる。(笑)

つまらないと思う。

「疲れるなぁ~」という言葉が出ている状態が絶好の良い状態、楽しめている状態なのかもしれない。

ずっと休日だと幸せを感じれなくなる。

頑張っているから、たまの休日がとても特別に幸せ。そんな感じ^ ^。



順調かどうかのキーワードは、

『疲れるなぁ~』

なのかもしれない。






あっ、余談だけど、

肉体に入れていない魂はこの感じを羨ましいと思っているらしい。

この感じを味わいたくて、肉体に入る順番待ちをしているんだって。(笑)

信じるか、信じないかは、あなた次第。

でもこの感じが死んでもずっと続くわけではなさそうだから、

肉体があるうちだけ、精一杯頑張ってみようと思える。

死んだら、一旦休息。そこまでなら頑張れそう。

一区切りがないとね。

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