私はプチ対人恐怖症だったんだなぁ~と最近気付いた。
幼少期は母との『愛の形』の違いにより、母の愛を渇望する子供だった。
それにより、対人関係形成が上手くできず、友達ともトラブル続きだった。
そして小学生時代にはチック症が短期間体に表れた。
まずは「目が熱いよー」といって、瞬きが自然にできない。
そしてビートたけしのように首と肩が勝手に動く。何でー、止められないー
そういえば、小学生の高学年時代から「プチいじめ」をされる。いわゆる無視だ。
そして中学生時代も一年間続いた友達が居なかった。
人の間をフラフラ~。
相手の顔色をうかがって邪魔をしないようにひっそりと。
高校時代も同じような感じで、ついには高1の最後辺りで不登校、自殺を本気で考える。
ここのエピソードはまた別で、ゆっくりと書きたい。『心』という繊細なものがたくさんつまった場所だから。
大学時代も同じような感じ。
楽しいこともたくさんあっただろうが、なんせ学生時代の記憶があまり無い。
閉じ込めてしまいたかったのだろう。
年を重ねる毎に、『人間』という生き物が怖くなっていた私。
社会人になってからは『仕事』というやるべき物事があったから少しは救われたが、人の動向にアンテナが立ってしまっているので、心休まる日が長く続いたわけではなかった。
人が大勢いると、だんだん自分がどう動いて良いか、というか、私の体の手や足、一つ一つのパーツをどう動かせば良いのか分からなくなってきて、トイレに駆け込むこともあった。そしてトイレから出たくない・・・
心休まる唯一の場所(笑)。
そんな私が2年前、出口を見つけた。
乗り越えたい、傷を癒したい、そんな場所はたくさんあったが、一つ一つをさらに深く掘っていくと、全ては一つの場所に行き着く。
そこから全ての物事は派生していたのだ。
だから私は大元である『母』と向き合った。
『あなたを理解できない』と言った母に対し、私は泣き叫んで伝えた。
今までは気付かなかったけど、
“きっと、全ての人間関係で大切なことはこれなんだ。”
と、体感した。
【理解しなくて良い。ただただ、『そうなんだね』と受け止めて欲しい】
経験、価値観など一人一人全て違う。だから他人のことなど、とうてい理解できる程、人間という生き物は単純な生き物ではない。
だから、理解なんて出来なかったらしなくていい。そのままの『あなたの気持ち』を受け止める。それだけで、人は自分で前に進める力を持っている。
それを身を持って体感した。
母と向き合う前、過去の体験から、私は人前に出るときは『傷付けられないように』と、知らず知らず、構えていた。
『自分を傷付けるものは他者』
私は傷つけられている。
ずっとそう思ってた。
しかし、大きな大きな山を越えられた私は考えた。
“いったい自分を傷付けていたものって何だろう・・・?”
Σ(゜Д゜)
あぁ、私は自分で自分の事を傷付けていたんだ。
私を傷付けていたものは、『私』だったんだ。
私は、私の中に
“こういう人間でなければならない”
という枠をきっちりと作り上げていた。
それは、世間的にとても常識人で神のような人間像。
そこに反する自分の行い、思考がある度に、自分という人間に×を付けて戒めてきた。
そこに気付いた私は『ありのままの自分』を全て受け止めた。
そしてそこから世界は変わった。
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