先日書いた
は、
大人になった今だから言葉にして気持ちを表現することが出来るけれど、
当時の小さい私は、この気持ちがその言葉だとは分からずに、どう表現していいか分からず、外に吐き出すことが出来なくて苦しんだ
当時、言葉では表現できなかったけれど、感覚だけは日々、
ひしひしと感じ取っていた
その中で、『親の支配』というものも感じ取っていた
子供はそれぞれ成長度合いは違うが、
解ってはいても、周りの子と外れることに関しては、親として不安になるのは当然のことだ
人間は集団で生きる生き物
集団で生きる野生動物であれば、集団から外れることは ”死” を意味しかねないからだ
だから人間のDNAにもその恐怖心が刻まれているのかもしれない
だから学校の "集団" から外れていれば、親としては "何とかせねば" と、心がざわつく
それは親の『愛』と捉える事も出来ると、
大人になって知った (【愛の形】)
今回は違う視点から見てみようと思う
”子供のため” ”こうやってできないと、子供が将来困るから”
と、親は必死になってしまうが、
本当にそれは ”子供のため” なのか?
そこをじっくり自分と向き合って考える必要がある
本当にそれができないと将来困るのか?
今や、色々な生き方をしている人が全世界にいる
モデルがいなければ、自ら作り出せばいいこの世界
本当に子どもは困るのだろうか?
親である自分の価値世界の中で考えれば、きっと困るのだろう
しかし、子供は自分の価値世界の中で生きる生き物ではない
自分とは違う、未知の可能性を秘めた生き物なのだ
そうなると、
困っているのは、実は、
親の自分だけだったりする
なぜ困るのか?
そこでパッと思いつくのは、
・親の価値世界の中で子供を生きさせるつもり
・世界の大きさを知らない(リアルな多様な生き方の人と触れ合う機会が無い)
・子供の可能性を信じられない(弱い存在だと捉えている)
普段の『意識』の中では認識していないかもしれないが、自分の中の『無意識』の中に存在する可能性もある
私は、相手と色々会話をしていると、相手のその無意識に気づくことがある
『敏感すぎる子供』は、その無意識領域に気付いてしまうのだ
言葉では表現できないから親に伝えることはできないけれど、
言葉をかけられると、
”なんか違う”
”なんだ、このスッキリしない感覚は”
という違和感が蓄積される
私が高校生くらいの時にやっと言葉にできた言葉は、
『私の人生はお母さんの人生じゃない!』
だった。
今思うと、
周りをキョロキョロ見渡しながら、私に、
『あなたの為よ』
と言っているイメージ
”ちゃんと私見てる?本当に私の為?それにしては外ばかり見ていない?”
と感じていたと思う。
実際に私に何かを言う時にはキョロキョロはしていないけれど、
何をどう感じ取っているのかは、私自身でも理解できないが、
多分、日常でお母さんが何処を見て、何処を重視しているのかを
日常会話や行動から自然と読み取っていた可能性が高いと思う
恐ろしい~
見透かされる(笑)
私が親の姿勢として大切だと思うことは、
『自分の芯を持つ』こと
その自分の芯が子供に合わなかったとしても、
それはそれでいいと思う
何で芯を持つことが大切かと言えば、
「子供が親の言っていることに納得できるかどうかが違ってくる」
と思うからだ
子供が親の意見に反対しても、
『芯』を持っていれば、しっかりと話し合いができる
『芯』がなければ、色々言われても困ってしまう
子供は、その内容が納得できるかどうか以上に、
”しっかり向き合える人かどうか”
を見ている気がする
あともう一つ大切にしている事は、
『自分の世界を広げること』
最初の方に書いた、
『学校の集団から外れる』ことを
もっと広い視点で考えるならば、
"人間の集団" はこの地球上に存在する
たかが地球から見たら鉛筆の点にもならない小さな区域の学校の中で外れたとしても、
生命の危機は何も起こらない
ただ、"所属する集団" が違っただけのこと
その子に合った集団を探して、そこの集団の中で生きていけばいい
私の場合は日本気質が肌に合わず、そこでは少し浮いてしまう存在になってしまうが、
海外に行けば、私と同じような気質の人は大勢おり、『浮く存在』とはならないだろう
だから『自分の世界を広げること』は、
子育てでとも大切な事の一つだと思う
自分の世界が
『ある限定の地域』の人と、
『日本全国』の人と、
『全世界』の人
とでは、考え方、捉え方が全く違ってくるからだ
広ければ広い程、多くの人間の種類に触れる機会があり、多様な価値観を知る
目の前で起こっている子供の成長の差など、大した問題にはならなくなってくる
書いているうちに、段々とまとまらなくなる・・・
まあ、いいか
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