『褒める子育て』から『共感する子育て』へ

私は元々、「こうでなければならない」がほとんどない人間だ。

成長過程で親からの「○○でないと」をたくさん受け、パンクしまくった時期もあったが、

今はそれらから解き放たれ、"しなければいけない事"のほとんどない世界で生きている。

子供の宿題も、"なぜやらなければいけないのか?"

と考えた末、子供に言ったことがある。

息子が2年生の時、担任の先生から連絡帳に私へのメッセージが書かれたことがあった。

「最近、○○君(息子)が宿題を出してくれないので、お母さんからも言ってもらえますか?」

私は息子に事情を聞いた。

どうやらやっていなかったようだ。

そこで私は、"なぜ宿題はやらなければいけないのか?"

について、自分の答えを探し始めた。

そして私は彼に、私の意見を伝えた。

「宿題をやろうがやらないだろうが、私にはどっちでもいい事だ。

しかし、宿題とは、先生と君との約束なのではないのか?

約束を破れば信用されなくなる。

君が先生から信用されなくてもいいのであれば、宿題をやる必要はないと思う。

でもママは、約束したなら守る人間の方が好きだ。

君が宿題をやる自信が無いのであれば、受け取らなければいい。

先生に『僕は宿題をやる自信が無いので、これは引き受けられません』と断ってこい!」

それ以来、彼は真面目にやっているようだ。

それを見て私は"この子はそこまでして自分の意思を通すタイプではないのか"と、

一つ彼の事が良く分かった。

たまに息子に、「君には"宿題をやらない"という選択肢はないのかい?」

と聞くことがあったが、彼は「そんなのできるわけがない」と返してきた。

"しなければいけない"って精神、

親の教育過程だけではなく、元々持っている人間もいるんだなぁ~

と、子供を通して人間観察を行っている。

そんな私が大切にしてきたことは、『褒める』こと。

でも、それを考える出来事が先日起きた。

息子と娘が学校、保育園から帰ってきて、娘が少し大きめのせんべいを見つけた。

「お兄ちゃんと分けっこしてね~」

と言うも、おいしかったようで、分ける気配なし。

そこで

「お兄ちゃんも学校から帰ってきてお腹すいてるから分けてあげてよ。」

と数回伝えると、娘の目からは涙が・・・悔しそうな顔・・・

食べるのを途中でやめ、リビングから出て行ってしまった。

そして私は

"すっごく自分が食べたいものを、我慢してまで他の人にあげなければいけないのか?"

(食べるものは他にもあるし、お兄ちゃんはそこまで「欲しい!」と言っていない状況)

私は娘に自分の意見を伝えた。

「おいしかったから、もっといっぱい食べたかった?

そうだよね。ママも今でもそういう気持ちの時、いっぱいあるよ。

それを我慢して人にあげるとね、今度は相手がおいしそうなものを持っていた時、

『前にくれたから』って、分けてくれる時があるんだよ。

でも、我慢せずに全部自分で食べた場合、相手がおいしそうなものを持っていても

くれない可能性が高いよ。

それでも自分が我慢できるんだったら、お兄ちゃんにあげなくてもいいよ。

どっちがいいかは自分で決めてね。」

私はその時は「分けること」が『善」で、「分けないこと」が『悪』と軽く考えていた。

娘の性格からして、最終的にはお兄ちゃんに分けるだろうな・・・と

予測しており、「お兄ちゃんに分けることにした」と、報告もしてくるだろうと思った。

だからその時に"たくさん褒めてやろう"と考えていた。

しかし次の瞬間、心がモヤモヤした。

"あれ?褒めるってことは、私は「分けること」が前提になっていないか?"

"自分が良しとした行動がとれたから褒める行為につながっているのではないか?"

"それって、自分の価値観を押し付けてる・・・"

私が育児で一番大切だと思っていることは、

『その人の価値観を大切にする』

なのに、自分の価値観を押し付けてる・・・

娘が案の定、私の所にやってきた。

「お兄ちゃんに分けることにした・・・」

私はさらっと、

「そうしたんだね。」

とだけ、彼女に言った。

彼女はお兄ちゃんの所へ行って、半分をあげていた。

物事には必ず良い面、悪い面がセットでついている。

その両方を天秤にかけ、自分の価値観で選んでいける人間になって欲しいと、

私は、常々思っている。

なので、『褒めてほしい(ママの価値観の中で生きたい)からの行動』で

選択してほしくなかった。

そして、自分が選択した以上、悪い面もしっかりと受け取れる人間になって欲しい。

子供の年齢的にも、そろそろ教育方針をシフトしていきたいと思った。

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