本当は、みんながのびのび、様々な価値観を受け入れあい、尊重していける
子育てが、私は理想だと思う。
昔の私は周りの大人の反応が気になって子育てをしていた。
”あのお母さん、きちんと子供をしつけているのかしら?”
そんな言葉が勝手に脳裏によぎる。
別に誰かから言われたわけではないのに、勝手に頭の中にこの言葉が流れてくる。
しかし、そもそも『しつけ』って何?
何を子供にしつけるの?
一つの行動を見てみても、ある人は”非常識”と言い、ある人は”おもしろい” ”いいんじゃない”
と言う。
誰の意見を採用して生きていけばいいの?
そう考えた時、この世の中に『正解』なんてものは存在しないんだと気付いた。
だから、自分で”これが良い”って感じる事を、堂々と行動するようになった。
他人の意見ではなく、”自分の感じる心”を大切に生きることにした。
子育てで色々な意見が出てくる。
「その考え方もあるんだね。」
「そう感じる人もいるんだね。」
「でも、私はこれが好きだから、こうするよ。」
それでいいんだと思った。
相手の考え方、価値観を受け入れ、でも自分の信じる”人生の芯”はぶらさない。
自分の芯はぶらさないし、相手の芯も無理に捻じ曲げようとしない。
そんな人間関係が築けたら、私は楽しく暮らせると思う。
子供といえども、自分の支配物ではない。
『個』なのだ。
彼らなりの考え方、捉え方がきちんとある。
それを勝手に土足で踏み荒らしては失礼になる。
自分の考え方、捉え方を伝えるのは、人生の先輩としては大切な役割。
しかし、それを聞いて、どうするかは、彼らの問題。
『個』として扱う必要があるのだ。
私は子供の頃、集団生活になじめなかった。
思春期の頃、友達は皆、マンガやドラマ、芸能人などに夢中で、その話で毎日盛り上がってた。
しかし、私はそんなものには全く興味が無かった。
私が夢中になった事、それは、
宇宙、自然現象、不可思議現象
などであった。
同じようにそれらに興味のある友達がいたら、楽しく過ごせていたのかもしれない。
しかし、私の周りにはいなかった。
”人の輪の中に入るには自分を消さなければいけないのか?”
”人と付き合うとは、こんなにも苦痛を伴うものなのか?それが当たり前なのか?”
”本来の自分は捨て、役を演じなければいけないのか?”
自問自答の日々が続いた。
大人でもそうだが、子供でも集団になじめないタイプが必ずいる。
それって、無理してまで集団になじまないといけないのか?
息子がもらってくる成績表に、『友達と仲良くできる』で評価が付く項目がある。
そこに評価をする必要があるのか?
大人になり、様々なジャンルで活躍している人達の人生に触れた時、
”何かに突出している人は、何かが欠落している”
と感じた。
良く欠落しているのは、コミュニケーション能力。
この世の人種は、大きく分けて2パターンの種類に分けられるだろう。
①一つのものに秀でてはいないけど、周りに合せて暮らせるタイプ
②一つのものに秀でており、周りに合せられないタイプ
どちらが『良い』 『悪い』なんてない。
どちらのタイプもこの世の中には必要な存在だ。
タイプによって活躍できる場所が違うだけなのだ。
私は、この②のタイプで、日本教育の『集団生活』に苦しんだ。
日々、自分に×をつけながら、生きてきた。
だから、このタイプの子供は、学校を選ぶときに慎重になった方が良いと思っていた。
しかし、ふと、考えさせられる物事があった。
『②タイプだけど、集団生活でそれなりに流して暮らしていける子供もいるのでは?』
『同じ状況であっても、傷つく子もいれば、平気な子もいる』
あれ???どうしたらいいの????
その時に、自分が考える、本当の『子育て』の意味が分かったような気がした。
子育てに大切な事って、
『子供にどんな環境を与えてやるか』
ではなく、
『どれだけ一生懸命子供の事を想うか。そして、その中でどれだけの気づきを自分が得るか』
ではないだろうか、と。
どんな環境を子供に与えようと、その子が産まれる前に自分で決めてきた『体験したい事(目的)』があるから、
周りがいくら口を出そうとも、その流れは本人にしか変えることはできないと、自分の体験から私は思う。
私の場合でいくと、
私が自分で決めた『産まれてきた目的』は、おそらく、
”人間関係での苦しみを存分に味わい、それをどう克服していくか。
そして、克服したのちには、どう他者に伝えていくか”
ではなかろうかと思う。
そう感じると、今までの自分の中でのあらゆる疑問が、すっと腹に落ちるのだ。
どう感じ、どう捉え、どう進んでいくかは、親に選択権は何もない。
その個人の問題である。
他人であれば”そうなんだ”と流せるかもしれないが、血を分けた我が子となると、
そうはいかないのではないだろうか。
しかし、そこが『子育て』の本当の目的だと思う。
『一番身近な人間の価値観を受け入れられる器を作る』
他人の価値観を受け入れることは、そう難しい事ではない。
それは自分に責任がかかってこないからだ。
話を聞き流すだけでいいのだ。
しかし、一番身近な人間ともなると、自分に責任問題が降りかかってくるのだ。
その責任を、どれだけ受け入れる『覚悟』があるか。
これが人間の『器』だと私は思う。
子供を通じ、この器を広げていくこと、こそが、
『子育て』の本当の目的なのでは
と気づいた。
『己(自己)育て』なのだ。
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