NPO法人ブルーバードに関わって他企業へ訪問する機会があった。
そこで目にしたものに、私は愕然とした。
自分と同年代で子供を育てながらの女性が役職を持ち、チームを率いて仕事をしていたのだ。
私はやりたがりの人間だ。
まだ独身の頃、会社で自分にまかされた仕事は、部内でほどんど誰も知らない仕事だった。
入社して半年、部門を超え、業務ごと移管するという異動があった。
部門を超えるなんてことはめったになく、とても珍しい業務移管だった。
大企業だけに、部門を超えての異動は二度と戻ることができない片道切符なのだ。
事務系の男女比:半々で、女性も活躍している部署から、技術系の部署へ異動となり、周りは理系の男性たちばかりで、女性はと言えば、男性のお世話役で簡単な庶務の仕事をやっている職場だった。
私は前部署から仕事を持ってきていたので、その部署の女性ではめずらしく、一人工の仕事を持ってやっていた。
私がやっていた仕事の3割はこの部署に関係するが、後の7割は全社を相手にする、この部署では考えられない仕事なのだ。(前の部署は全社相手に仕事をする部署だったのだ)
後から聞いた話、本当はこの3割の仕事だけを欲しかったようだが、出す側の部署が
「全部を持って行ってもらわないと困る」
と、全部持たせて人ごと出したのだ。
だからこの部署では上司以外はほとんど知られていない仕事を入社の時からずーっとやってきた。
私は日陰は嫌だった。メインで活躍している人達がうらやましくてしょうがなかった。
周りから仕事の進捗を聞かれ、アドバイスをもらい、叱咤激励をもらい・・・
そこの仲間に入りたかった。
上司といえども、細かい部分は私が全部回していたからアドバイスも何もなかった。
というより、自分で解決できる能力は持ち合わせていた。
何の役職も持たない自分だったが、自分の仕事の後工程の現場の人達を集め、
業務ミーティングも取り仕切っていた。
そして家が遠かったので、”残業はしない”と自分で決めており、その代り、時間内はものすごくハードに黙々と働き、サーっと帰った。
今思えば、時間当たりの生産性はとても高かったと思う。
そんな状況の中、この部署は女性だけで回す当番業務(資料の配布、コピー等)が多く、当番が回ってくる度にとても悔しかったし、腹立たしかった。
私はそこでもがいていた。
どうやったらこの状況を抜け出せるのか・・・
しかし、私は短大卒で事務員の枠採用だったため、周りの男性陣の総合職採用へ行く道は、当時は無かった。
”私は一生このままなのか・・・”
何度も先が見えず、辞めたい気持ちになったが、
”今までの努力が彼らとは違うから、しょうがないことなんだ”
と自分に言い聞かせ、気持ちを奮い立たせて続けた。
しかし数年すればこの仕事も飽きてしまう。
上司にお願いをして仕事を増やしてもらった。
今までやっていた仕事を渡す相手がいないため、その仕事をいかに効率よく、短時間でこなす工夫を思いつく限り改善した。
そして空いた時間で別の単発の仕事をやらせてもらった。
改善提案書も誰よりも多く書いたし、改善金額が高額のものも出した。
そんな日々が数年続いたが、別の道は開ける様子もなかった。
何度も心が折れそうになったが、その度に自分を奮い立たせる日々が続いた。
そしてそのうち、結婚、出産と、自分自身のイベントが続いたので、この気持ちは薄れていった。
入社6年目で子供を授かり、2年の育児休暇を取らせてもらった。
育児休暇中に時短勤務の制度ができ、復帰時には6時間勤務で働くことができた。
6時間勤務で8時間分の仕事を任されていたので、仕事はさらにハードになったが・・・。
それでも業務改善を繰り返し、こなしていた。
当時子供持って働いている女性は私しかおらず、周りからは、ふざけてだが、
『早く帰れていいな~。俺も子育てしたい。』
と言われることが多々あり、最初は悔しかった。
会社を早く帰っても、自由は何処にもないのだ。
子供のお迎えを急いで行き、子供と少し遊んだら「お腹すいた~、ママ抱っこ~!」
とぐずりだす子供。
その子供を抱え、晩御飯をせっせと作り、食べさせ、お風呂に入り、寝る。
自分の時間はないのが当たり前。そんな生活だった。
だからこそ、会社で男性にそう言われると悔しさがこみ上げてきた。
"仕事だけに集中できるあなた達がうらやましい"
でも子供が欲しくて出産を選んだのも私。
仕事と家庭のどちらに重きをおけばいいのか分からずに苦しむこととなる。
そして女性も少しずつ増え、今までの仕事を他の人へ渡し、新しい仕事をもらえるチャンスがやってきた。
新しい仕事はとてもやりがいがあった。
データや情報を集めて月報を作成・発行するという仕事だ。
技術系の職場だけに、集まってくる情報の内容が完全に技術領域なのだ。
周りの技術員に聞きまわって内容を理解し、そしてまた新しい事に出逢う毎日。
そしてそれをどう表現、どう見せていけば、この月報を手にする人達が活用してけるかを考え続け、月報の内容をステップアップさせていった。
引き受けた時は部長にちょっと報告して終わりの月報だったが、1年経った頃には部長もじっくり聞いてくれるようになり、2年経つ頃には、役員にも報告へ数回行くことができるようになった。
海外からもデータをもらっているのだが、英語が苦手な私。それでも海外の困りごとを解決してあげたかった。データ提供してくれる代わりに、相手の役に立ちたかった。
そこで翻訳ソフトを駆使して海外の困りごとの状況を聞き、データをもらい、日本の技術員さんに聞きまくった。そしてその見解をまた翻訳ソフトを駆使して英語にして伝えた。
海外にも日本人のコーディネーターさんはいるが、コーディネーターさんは仕事の幅が大きく、あまり関わっていられない。その状況もあったので、基本は現地の方に英語でメールを送り、㏄でコーディネーターさんを入れ、日本語の文章も書いておいた。
『私の英語がおかしい場合はフォローをお願いします。』
という具合に。
海外の事業体は数体あるのだが、次第に、手伝ってくれるコーディネーターさんが出てきてくれたのだ。
そして日本の技術員さんも丁寧に教えてくれるようになった。
ある日、私が海外の事業体の事で困っていると、助けてくれたコーディネーターさんがいた。私は「何で助けてくれるの?」と聞くと、彼は、「君が頑張っているから」と言った。
私はその言葉にびっくりした。
自分では頑張っているなんて思ったこともなかったからだ。
だた、楽しくて夢中でやっていただけなのだ。
その仕事で、”人が動く”という事を私は知った。
上司は私にいつも「早くフルタイムに戻ってね。」と言ってくれていた。
時短勤務だと、評価もフルタイムの人を優先せざるを得ない状況のようだった。
そしてその頃には事務職の人が技術職へ職種変更できる道もできていた。
上司と私は、いつか技術職へ職種変更する夢を共有していた。
しかし、職種変更するには、フルタイム勤務は必須なのだ。
時短勤務ではその土台に乗る事すらできない。
上司が教えてくれたが、私が1人目妊娠があと1年遅かったら、事務職でも階級が一つ上になって、一応、事務職の中のリーダー職になったらしい。私が1人目育児休暇中に制度が変わり、事務職の職層が増えていたのだ。今では長く働く女性が増えて、リーダー職になるには随分と年数が経たないとなれなくなってしまった。
仕事が波に乗っている最中、2人目を妊娠した。
上司から、入社2、3年目の子に仕事を引き継ぐように言われた。
私は目の前が真っ暗になった。
自分は入社して8年間(育児休暇もあったが)、日陰の仕事にずっと耐え、チャンスがやってくるのをひたすら待って掴んだ仕事だったのに。
そして8年間社会人として身に付けた仕事力を駆使して大きくしたこの仕事、入社2,3年目の子にやすやすと渡さないといけないなんて・・・
本当に悔しくて泣いた。涙が途切れなかった。悔しくて、悔しくて・・・
でも、これもまた自分が2人目が欲しくて選んだ道。
なのに・・・
人の気持ちって矛盾だらけ・・・
でも、でも、どっちも諦めたくない・・・
そんな時、他の部署の仲良くしているリーダーの言葉に心を打たれた。
「君の仕事ぶりは見ていてわかるよ。仕事は軌道に乗せるまでがとても大変なんだ。君はそれをやったじゃないか。軌道に乗ってしまえば、あとは他の人にあげてしまいなさい。仕事を軌道に載せれる人は、どんな仕事を与えられてもできる人だから、大丈夫。もしそこの部署で君が必要ないと言われたら、僕が喜んでもらうよ。」
涙が止まらなかった。
そして私は気持ちよく仕事を引き継ぎ、育児休暇に入った。
2年の育児休暇が終わり、今度はフルタイムで職場に戻った。
挑戦してみたい気持ちもあったり、私の休み中に後輩がたくさんできたこともあり、
何か私が意見をする際、時短勤務の人よりフルタイムの同等の立場の人が言う方が周りもすっきりするのでは?と思ったからだ。
しかし、半年して私が肺炎になってしまった。
私にはフルタイムでの仕事と育児の両立は体力的に難しいようだ。
出来る人もいれば、体力的に無理な人もいるということが分かった。
仕事はまた育児休暇前の仕事をやることになった。
しかし状況は変わっていた。部長が変わっており、あまり月報の意味を感じてはいなかった。そしてさらに状況は悪くなり、私の部署は他部署に吸収されることとなった。
組織も変わり、上司も部長も変わった。そして私のやっている月報は意味をなさなくなった。
私は仕事の意味が分からなくなってきた。
人が変われば重要視されなくなる仕事って・・・本質は何処なのか・・・
私が関わっている仕事のベテラン技術員さんに聞いたことがある。私がやっている仕事の意味を。
このベテラン技術員さんは元私の上司で、この分野の人達は彼を"神"と呼んでいる程、その道の知識人。そして彼がこの月報のデータの重要性に気づき、苦労してデータを集め始めたのだ。
その人は、「君がやっているこの仕事は絶対に失くしてはいけない」と言っていた。
その技術領域では月報のデータが指標になっているようだが、その重要性に気づいていない上の人達には、この月報は何の意味もないようだ。
一度このデータの取集をやめれば、またいつの日か再びこのデータが重要だと言っても、収集の労力は計り知れない。それを彼は身をもって体験しているから知っているのだろう。
しかしこの月報の仕事はなくなった・・・
その時私は、
会社にとって本当に大切な物って何なのか?
上が変われば、大切な物もこんな簡単に失くしてしまう・・・
働く意味って何なんだ・・・
何を目標に働けばいいのか・・・
私が会社という組織に対して疑問を抱き始めた最初のきっかけだった。
それでも次にまたワクワクする仕事を上司は提示してくれた。
もうほぼ完全に技術員の仕事だった。
私はその仕事がやれるのを楽しみにしていた。
それが年末に近づいていた10月だった。
私の希望はこのまま技術員に近い仕事にどんどん進んでいきたかった。
いつか、技術職に行ける日を夢見て。
しかし、その夢は無残にも打ち砕かれた。
11月、上司から「上に、君の仕事のことで相談したんだけど、今、部の中で事務職の女性の働き方方針が決まって、今度の仕事は技術職領域の仕事だから、事務職の君にはやらせられないみたい。しかも、今までやってきた仕事もダメなんだって。」
私はもうこの部署では先が無いんだと思った。
事務職の仕事(事務作業)をやって、試験を受け、各種実習を終わらせ、晴れて技術員にならないと、私がやりたい仕事には携われないんだ・・・
そして年末に来年の新体制を見たとき、がっつり事務職をやらざるを得ない環境になっていた。
今まで歯を食いしばりながら耐え、そして夢に向かって一歩ずつ登ってきたストーリも、あえなくチャラになってしまった・・・
それをいくら訴えても、『ワガママ』としか言われなかった。
私にとって”仕事”は人生そのもの。
積み上げて生きていきたい。
でも、こんなにもあっさりと積み上げたものが崩されるのか・・・
その絶望感が自分自身の生きる力を奪っていった。
そして1年間は泣き叫びながら耐えた。
しかし、ついには会社に行けれなくなった。
今は自分の人生を積み上げている感じがする。
自分の手先が器用、物を作るのが好きという特性を生かし、クラフトバンドで作品を作っていたら、大学関係者から、大学の空き時間に一般向けに講座を担当して欲しいとお誘いがあり、講師をする予定となっている。
そしてNPO法人ブルーバードでは、自分が今まで味わってきたものすべてを生かして『働き方改革』の企画に携われ、思い切り自分の知恵を絞ってメンバーと交流を深めている。
今まで味わった事が全て無駄なわけではないが、今は確実に上に積みあがっている感覚がある。そして、それを誰にも崩されない安心感。
もう、他人に勝手に崩される生き方はもう嫌だ。
しかし、夫は会社を辞めることに賛成はしてくれない。
拘束時間が決まっていて、もらえる金額も決まっているサラリーマン以外の生き方を受け入れることができないのだ。
まだまだ夫婦の間で話し合いが必要だ。
でも、私は他人に舵を取られる生き方はもう嫌だ!
NPO法人ブルーバードで開催する9月の勉強会『ママと一緒に働くのは迷惑なのか?』で使用する良いデータが更に無いか、と探していたら見つけたこの記事。
この記事の最後の方に書かれている、
「仕事か子育てかという二者択一ではなく、仕事も、子育ても、地域活動や趣味も、一人の生き方の中に共存できるようになることが本当の意味でのワークライフバランスではないでしょうか」
まさしく、これを目指して活動しているのがブルーバードだった。
私もこんな風土になって欲しいと心から思う。
そうしたら本当に楽しく全部手に入れて暮らせるだろう。
次の記事も2013年と少し古いけど、これを読んだときに本当にうらやましかった・・・
中小企業だと入り口が違っても、中に入ってしまえば平等に競っていけれるという事が分かってきたが、大企業は完全に道が分かれており、競う舞台にも立てないのが現状。いや、私のいた分野の部署がそうなのかもしれない。事務系の部署の人で、私と同じような仕事をしていて総合職に転職している人もたくさんいる話を聞いたことがある。しかし、私がいた技術系では、総合職の壁はとても高い。家庭を優先させていたらまず総合職への職種変更は無理なのだ。(元々総合職で入って時短勤務している人は別。事務職から総合職へ行くには面接で脅されるのだ。)
無論、短時間勤務は問題外なのだ。
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