「本人がそれで良ければ、それがその人の正解」という私の基本思想の理由

私は、

「本人がそれで良ければ、それがその人の正解」

という考えだ。



自分の頭をフルに巡らせた結果、行きついた先がこの場所だった。



今日はふと、

”何で自分はこう思ったのだろう・・・”

と、思い起こしてみた。




私は、服を表裏逆に着る息子を見て、胸がときめいてしまう人間だ。

(エピソードは→【カバん家(ち) 子育て日記:裏も使うのかっ!!!!】)



多くの人は、服は、どっちが表で、どっちが裏かを知っている。

小さい時から親から「こっちが表だよ。」と教えられたからだろう。


もっと時間をさかのぼり、最初を辿っていくと、『服』というものを作った誰かが、

「これは(服)、こっちが表として使うものにしよう!」

と決めたはずだ。


たった1人の人間(複数の人間で考えたかもしれないが)が言い出したことを、みんなはそれが『正解』と捉え、長い年月過ごしてきた。


でもその時に、現代で『裏』と言われている方を「こちらが表としよう」と言っていたら、どうなっていただろうか。


現代風に着ていたら、

「それ、裏側だよ」

と言われる世界になっていただろう。


そしてもっと言うのであれば、

なぜ、『表(おもて)』を外側だと思っているのか。


そこについては、

人類の言語発達の歴史や、人類と衣服の歴史(いつの時代から人類は衣服について表裏を決めて生活するようになったか)について考えていかないといけないので、これ以上は深掘りはしないが。




つまり、ここで言いたいのは、

多くの物事は、誰かが定義をしたからそうなっているだけであり、最初の定義が変われば変わってしまうような(変えようと思えば変えれてしまうもの)、不安定なものなのだ。

どんなことがあろうと変わらない、絶対的なものではないのだ。



私の中にこの視点がある為、

【この世の中に『正解』は存在しない】

と捉えている。


でも人は道を進んでいくのに、羅針盤が必要だ。

その為に存在するのは、

【各人の中の『自分はこれがいい』という感覚】


日本人は『正解』と表現した方が分かりやすいので、

私はこの感覚を『その人の正解』という言葉で伝えている。





ここからは余談だが、

日本人は『正解』を求めて生きている傾向が強いように感じる。

(外国の方もそうなのかもしれないが、私の中にそのデータが無いので、日本人としてみた)


自分の行動、思考は正解か?

不正解ではないか?

を、常に照らし合わせてる。

(昔の自分がこれをガチガチにやっていた。大分無くなってきたけれど、消え去るのには時間がかかりそうだ)



特に女性は、『子育て』という未知との遭遇機会が多いので、

常に『正解はどれ~?』と日々模索している。

そして周りを見渡し、多数派を『正解』と位置づけ、せっせと子供に『正解行動』をとらせようと四苦八苦している。

(昔書いた記事を発見【親の支配】)



しかし前半に書いたように、

一般的に言われている『正解』というものは、一部の誰かの手によって作り出されたものに過ぎず、

時代が変われば180度変わってしまうこともよくある。



でも、自分も含め、日本人は心の拠り所が『正解であること』が大きいのではないだろうか。

世の中に正解がないと言われても、とまどうばかりであろう。


ではなぜ、

【心の拠り所が『正解であること』】

なのだろうか。



私は、学校教育が大きく影響していると思っている。


私達は学校生活で、常に『正解』を求められてきた。

各教科の『正解』は勿論のこと、行動、思考に至るまで、徹底的に。



私達が教育で身に付けたことは、

『正解をだすこと』


時代的にも、その『正解をだすこと』に意味はあった感じはする。

同じ方向を見て、同じように動ける人間が必要だった時代。



しかし、もうその時代は終わってしまった。



どんどん『正解』のない世界へいく。


というか、本来の姿を取り戻していっていると考えれなくもない。



『正解』は一人一人の心の中に存在し、自分が決めればいいだけのことなのだと、私は思う。


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