先日、友達と話したことをふと、今朝考えていた。
母親と自分との関係についてだ。
私は小5~高1まで、毎年1年間続いた友達がいなかった。
上手くいかないのだ。
一番の大きな理由は、『話題が合わない。』
思春期の真っただ中、周りはドラマや芸能人の話で大盛り上がり。
しかし私は全くそれには興味がなく、宇宙や不可思議現象が大好き。
話が合うわけがないのだ。
母からは「みんなとあわせるためにドラマをみたら?」など、”周りとうまくいくには”のアドバイスを
いっぱいもらっていた。
しかし、気づかぬうちに、”今の自分ではダメなんだ”と、自己否定を続けてきた。
いつの間にか、自分に自信が持てず自分には価値がないと思うようになっていた。
”あの時、もっと母から『今の自分のままでいいんだよ。興味の対象が違うだけのことなんだから。』と、
自己肯定する言葉をたくさんもらっていたら、もっと楽に生きられたんじゃないか”
と、母を責める自分がいた。
しかしよく考えたら、『あなたは社会に出てから活躍するタイプよ。』と、良いことも言ってくれていたことに
やっと気づいた。
ずっと母を責めて、”自分は人生の8割方、母に認めてもらっていない”と、思っていた。
しかし、ある程度心の傷を吐き出した今、思い出すことは、母が私を肯定していた言葉。
ここで疑問に思った。
ひょっとして、母は私に対して肯定も否定も半々だったとしたら・・・
私は否定の言葉ばかりをキャッチして肯定の言葉をキャッチしてこなかったのでは?
どんなに過酷な環境で育った子でも、良い方向へ行く人と、悪い方向へ行く人がいる。
どんなにすばらしい環境で育った子でも、良い方向へ行く人と、悪い方向へ行く人がいる。
どんな子育てをしたとしても、どの方向へ行くかは、子供の問題なのではないだろうか?
その子が生まれてくる際に乗り越えたいテーマで設定してきたものについては、
親がどんなに気を使って子育てをしたとしても、起こることは起こるのではないのだろうか。
私がこんなに人間関係に苦労したのは、きっとそこに生まれてきた課題があったのだと思う。
だから、当時の親がどんな言葉をかけたとしても、結果は一緒だったのではないだろうかと、最近思う。
でも、こうして乗り越えられてきている。
そう思えば、子育てでそんなに悩まなくてもいいのでは?
と思う。ただ、子供が必要としてきた時に、隣に寄り添ってさえいれば。
だから私の最近の子育ては、『母親であることを捨てる』。
間違えてはいけないのは、何か子供にあったとき、子供が他人に何かをした時などの
腹をくくる覚悟は捨ててはいけない。
私が捨てたのは、”母親だから○○をしないといけない”ということだ。
「今日はママがテレビ見てグーダラする日だから、君たちは邪魔しないでね」
「今日は疲れているから、それはやりたくない!」
など、自分に無理をしないこと。
気分が乗らないこと、嫌なことなどは我慢しないで子供に主張する!
ママだってワガママ言うぞー!
子供と一緒に大騒ぎ!
子供と一緒に大声を出す!
などなど。。。。。
のびのびと子育てできて、これがまた楽しい。
夫はプンプン子供達によく怒っているけど、夫の怒る権利は奪わない。
前は、怒っている夫を見るのが自分は耐えられなくて、夫に怒らないよう、小言を言っていた。
しかし、心屋流、相手の怒る権利を奪わない。
子供や周りの人が怒っているのを止めようとするのは、それが自分が耐えられないからであって、
自分の都合で相手が感情表現をすることを止めてはいけない。相手にも感情表現をする権利があるのだ。
夫はともかく、私は楽しく子育てができているので、良しとする!
夫が怒るのは、夫の問題だ。
きっと、自分が子供の頃にのびのびとさせてもらえなかった事が多かったのかなぁ~。
人が相手にイライラする事って、自分がやりたくてもやれなかった事なのだ。
本人は『やりたい』と気づいていないことが多いが、自分はこんなに我慢したのに、なんで目の前の
こいつは、しゃあしゃあとやっているんだ。
って、自分のセンサーに引っかかってくる。
夫の心をいつか、紐解きたいなぁ~。(野望)
0コメント