「向き合う」ということ

洗礼を受け、もう一度周りの意見を聞き、自分が一点だけ"無責任だったかな~?"

と思えた事があった。

それだけが心に引っかかった。

今日、後輩に、

「私はこのまま終わらせてはいけないと感じたよ。もう一度みんなで集まって、

もっと話し合いたいと私は思うけど、みんなはどうかな?」

後輩が、

「あまり時間が取れないからちょっとだけ。」

もう一度、みんなで話す場が持たれた。

私は自分が無責任だったと感じた部分を話し、そこについて謝罪をした。

そして、

「あなた達はどうしたいと思うの?」

と聞いた。

その返事が、

「もういいんです。本当に気にしないでください。これ以上は・・・」

それが彼女達の答えだった。

私はそれも一つの考え方だと心から思えた。

私も人の目ばかりを気にして生きてきて、いっぱい(勝手に)傷ついてきた。

だから、彼女たちの気持ちもわかる。

でも、それを乗り越えたからこそ、「向き合う」事の意味、大切さが分かる。

そして、乗り越えた後に待っている、「今まで感じられなかった素晴らしい世界が待っている」こともわかる。

向き合わずに逃げることは簡単で、楽だ。

でも、そういう生き方も否定はしない。

会社員で生きていくなら、その方がいいのかもしれない。

きっと彼女達にしてみたら、「逃げている」とは感じてはいないだろう。

その気持ちもよくわかる。

かつて自分がいた場所だから。

「向き合う」には苦痛が伴う。

自分が自分に対して否定している部分を直視しなければいけないのだから。

相手の気持ちを勝手に想像して自分の行動に制限を与えている。

(きっと、自分では気づいていないだろう。自分自身が自分に制限をかけているなんて)

でもそれって、逆に相手に失礼だと、今の私は思う。

これは心屋さん流。

『相手の気持ち、勝手に決めつけんなーーーーー。あんたは何様や~。

それって上から目線ーーー!!!

「私はあなたの事、信用していません」って言ってるようなもんだよー!』

って。

心屋さんのブログに書いてあったなぁ。

今は分かる。

相手を信用するってこと。

私が断っても相手は大丈夫。

自分で自分のことぐらい、何とでもできる力があるから。

昔よく、昼食を一緒に食べるメンバーに配慮して、

"私が休んじゃうと、○○さんが一人になっちゃう・・・"

って。

それって、

"私が一人にされると困る~"

なんだよね。

自分が一人で行動できる人間だったら、一人になったところで、

一人で食べるか、誰かいれば探すか。適当に・・・

相手の動きまでも勝手に制限してる。。。。

相手の「自由」奪ってるよね。

(=自分の「自由」も奪ってる)

でも、これって、知りたい人にしか、分からないんだよね~。この感覚。

だから、会社ではAwayだろうね。

こんな話しても???????だろうね~。

それでも、自分は自分のこの考え、この生き方好きだから。

だから自信持って楽しく生きられる。

何かの本で読んだな・・・

"「楽しく生きられる人」は場所を選ばない"

Awayって感じでも、自分はずっと楽しく生きられたら、きっとここは卒業なんだと思う、今日この頃。

私の卒業証書、いつ来るのか楽しみ♪

私が今たまらなくgetしたい本は、

『嫌われる勇気 -自己啓発の源流「アドラー」の教え-』

こんな本読んだら、ますます自分らしく羽ばたいてしまう・・・(笑)

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